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9月のおはなし ~寛永寺 その③~

天海僧正は寬永寺を建立するにあたり、様々なこだわりをもって境内及び伽藍(がらん=建物)を整備していったところまで先月はお話ししました。

さて、清水観音堂や辯天堂、法華堂などのお堂は寬永寺の境内に建立されたのですが、実はこれらのお堂は、幕府が建てたものではないのです。

例えば法華堂は御三家の一つ、紀州大納言(きしゅう だいなごん)德川頼宣(とくがわ よりのぶ=家康公の十男)による寄進であり、その対になる常行堂は尾張大納言(おわり だいなごん)德川義直(とくがわ よしなお=家康公の九男)によって造立されています。
また辯天堂の建つ不忍池 中之島(なかのしま)を造営したのは水谷伊勢守勝隆(みずのや いせのかみ かつたか)、五重塔は老中の土井利勝(どい としかつ)、大仏は越後村上藩主の堀直寄(ほり なおより)、他にも名だたる大名が挙って寬永寺の整備に協力をしました。
また諸大名に協力を仰ぐだけでなく、天海僧正ご自身も私費を投じて清水観音堂を建立、吉野山(現在の奈良県内)からヤマザクラを取り寄せて参道に植樹するなどしています。

こうして壮大な伽藍が立ち並び美しい花々が咲き誇る寬永寺の境内は、江戸庶民の憩いの場となって多くの浮世絵や川柳の題材となり、そのおかげで今日でもその賑わいを知ることができます。

天海僧正がどこまでを意図して行ったのか、その心中は記録されていませんので我々には推し量ることしかできませんが、その功績を知れば知るほど僧正のお人柄を追慕せずにはいられません。
結果として寬永寺は幕府の祈願所(後には朝廷の勅願所も兼ねる)でありつつ、また庶民が行楽に訪れ江戸の発展と平穏を象徴する場所でもあった訳です。
そしてそれら庶民が立ち入りを許され楽しんだ区域は、天海僧正との公私にわたる交流をもつ大名の助力によって整備された。
なんだか現代で言う、官民一体という言葉を体現しているようにも思えてきます。

そんな天海僧正だからこそ、德川将軍三代をはじめ、全国の諸大名からも篤い帰依を受けたのでしょう。
その一部を紹介しますと、陸奥弘前藩(むつ ひろさきはん)二代目の津軽信枚(つがる のぶひら)はキリシタンでしたが江戸を訪れた際に天海僧正と出会い天台宗に改宗、後に藩内及び寬永寺山内に寺院を建立しています。また弘前という地名も、天海僧正に相談して名付けたという伝説があります。

天海僧正が下野国(しもつけのくに=現在の栃木県)にいた際に面識を得た水谷勝俊(みずのや かつとし)は米 二百石を僧正に寄進し、後にこれを基に東漸院(とうぜんいん)が建立されたと言われており、また勝俊の子は前述の水谷勝隆であり親子二代にわたる帰依をしているのです。
そして伊勢津藩(いせ つはん)初代・藤堂高虎(とうどう たかとら)は外様大名ながら德川家康公に重用され、お互いの死後に浄土での再会を願い、天海僧正のとりなしで天台宗に改宗したという逸話が残されています。
実際に高虎は寛永4年(1627年)には東照社(1646年の勅許により「宮」に格上)を東叡山内に建設し、さらにその別当寺として寒松院(かんしょういん)を建立、そこを藤堂家の菩提寺と定めたのです。
そして現在もその墓所は上野動物園内にあります(非公開)。
次回はこの東照宮について触れたいと思います。

(つづく)

東叡山寛永寺 教化部