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東叡山 寛永寺の歴史

慈眼太師肖像画

寛永寺は、寛永二年(1625)慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだいそうじょう)によって創建されました。
徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立しました。
これは平安の昔(九世紀)、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄上人(でんぎょうだいしさいちょうしょうにん)が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものです。
そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。
さらに寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。やがて第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになりました。
そして朝廷より山主に対して輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜(かし)され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現 輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)といわれ東叡山に在住し、文字通り仏教界に君臨して江戸市民の誇りともなりました。

初代歌川広重「上野清水堂不忍池」

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有しました。
そして現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され、本寺(現東京国立博物館)には、小堀遠州による名園が作庭されました。さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇りました。
ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。
さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、寛永寺は壊滅的な打撃を受けたのです。
しかし明治十二年(1879)、ようやく寛永寺の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建されました。
また明治十八年(1885)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え、再出発したのでした。幸い伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」の勅額は、戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。

新版浮繪上野東叡山之図

その後、関東大震災、太平洋戦争の空襲などで被災したものの、戦後は新たに霊園を造成し、広く東京都民や有縁の人々に開放しました。 爾来、将軍家の菩提寺から、首都東京にふさわしい、開かれたお寺としての役割を果たすことを目指しています。
また、重要文化財に指定された史跡や宝物を現在まで伝え、伝統を保ちながら時代の要請にこたえる寺院として維持しています。
現在の境内地は約三万坪、天台宗別格大本山の格式を有し、根本中堂のある本寺をはじめ、開山堂、辯天堂、パゴダ、徳川霊廟、輪王殿、幼稚園及び子院十九坊などが上野の杜に広がっています。
戊辰戦争で焼失を免れた清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門などが重要文化財に指定され、往時の雰囲気をしのぶことができます。
幕末に十五代将軍徳川慶喜公が謹慎蟄居なされた「葵の間」や歴代将軍宝塔は、当時のままに保存され、歴史の重みを今に伝えています。


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