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3月のおはなし ~「みじん切り」の中に?~

寛永寺の大玄関を上がると、目の前に「一微塵(いちみじん)」と書かれた大きな額を目にすることができます。明治30年夏の文字があることから、多くの方からもう100年以上経つんですねとお言葉をいただきます。一微塵とは、「みじん切り」で言うところの「みじん」1つを表し、本来は「ごく小さなもの」「目に見える最小のもの」といった意味です。では、なぜこんなことばをお寺の玄関にかけるのでしょうか。

お経に説かれる世界観では、とにかく膨大な数が扱われることが多くあります。たとえばお経に出る「百千万劫(ひゃくせんまんごう)」という長さは、「百年に一度、天女が空から降りてきて、衣の袖で1m四方の石をなでる。その石が磨滅するくらいの長さ」を「1劫(いっこう)」とし、それの百千万倍を意味します。なんだか気が遠くなる数字ですが、「微塵」も同じような表現として、数え切れないほどといった意味を表現するのです。

ところで、わたしたちのこころは本来一つのはずですが、一瞬一瞬ごとに移り変わってゆきます。もちろんこの中にはよい心、悪い心、整った心、散らかった心など、さまざまな心持ちがあることでしょう。こうして天台宗ではわたしたちの心の中にはなんと「三千」の世界観が備わっていると考えます。そのひとつを取り出す意味でも「一微塵」は使われるのです。中国で天台宗を開かれた天台大師は次のようにおっしゃいます。

一微塵のなかに大千の経巻あり。(『摩訶止観』)
私たちの心の中の「一微塵」には、数多くの仏の教えがそなわっていることをよく理解しなさい。

とあるお経に、私の心と仏と人々に区別はないと説くことから、私の心のなかの「一微塵」と仏の心のなかの「一微塵」が通じると伝統的に考えられました。どうしても「仏」というとはるかに高い別世界にいらっしゃるような気がしますが、寛永寺にある額は、実は私たちの心のなかに仏がいらっしゃるということを教えてくれているような気がしてなりません。

今月はお彼岸です。改めて私たちの心の中にいらっしゃる「仏」を探してみてはいかがでしょうか。

大玄関に掲げられる「一微塵」の額 揮毫は「太宰府宮小路康文」とある